2022年4月2日土曜日

ちょっとした小旅行

 忙しい仕事が続き、やっとあと
一日働けばひと息つけるという時、
まさかの体調不良。

 腹痛と身体が…動かない。
ちょうどその日は悪天候とシフトの関係で休めた。
 今のいままでこんなことは初めてで、いつも体調を崩すとしたら、仕事や大事なことを済ませた後におこった。
 だからこれは、まずい。
身体のコントロールがうまくいかないってことは、ほんとにしたいことが出来なくなるってことだ。
大事な美少女の絵が描けなくなったら、ヤバい。それこそ一大事。
何のために働いてるか分からなくなってしまう。
 結局、休んだその日は一日中寝ているという体たらく。
 美しく一生懸命働くのはいいけれど、やりたいことが出来ず、仕事のやり過ぎで動けなくなったら意味がない(それでなくても無理に頑張り過ぎて癌になるという前歴がある)。
 そもそも、手が抜けない質で
何事もやり過ぎる。
 やり過ぎたって、それであっけらかんとしていることが出来るなら何の問題もない。
 だが、かなしきかな。自分はそんなに強くない。強い人はカッコいい。そうなりたいけど、身体がついていかない。
 無理したら結局馬鹿を見る。

 …しかし、仕事のやり過ぎで寝込みつつ、絵を描きキックボクシングをやっているのだから自分は、懲りてないのかもしれない。

 だがゆっくり寝込んでもいれない訳がある。
 初といってもいい小旅行をよていしていたのだ。といっても都内ぶらついて泊まるってだけのものなのだが。
 引きこもり傾向の同居人おもちさんをつれまわし久々の表参道、原宿。
 コロナ禍もあってか店がつぶれていたり変わっていたり。なんだか華やかさが薄らいだような気がした。
もともと竹下なんかは張りぼて(出店てきな)のような楽しさがあるがそれがとても簡素、質素、さみしい。
  だから、Lindt以外お金を落とさない結果になった。
Lindtは活気がありましたね。
 いついってもたのしい。
おもちさん曰く、テンションお上りさんみたい(笑)。

 そこから赤坂スーパーホテルへ。
 スーパーホテルってなに?

そう銭湯があるホテルなんです。すごーい。
ビジネスホテルのちょっと豪華になった感じ。
 ホテル行く前に駅に成城石井があったので、酒盛りのつまみを買っていざ出陣。
 ホテルの下にはセブンさんもある。
 ホテルの部屋はというと、清潔感あって広すぎず狭すぎず。
 痒いところに手が届く。ベットが広い。銭湯はこじんまりしていたが、腐っても銭湯。申し分なし。ちょっとした旅館だ。
 いやぁ楽しかった。
特別なにもしていないが。
Lindtのチョコレート持ち込んで、プロシュートとチーズ、お惣菜とポテチ。そして、思い出のモーモーちゃーちゃー。
 贅沢の極み。
そんでホテルの一室で絵を描く。動画聞きながらひたすら、描く。おもちさんも描く。どっか出掛けるよりホテルに引きこもりほぼ自宅と同じことをする。
 贅沢。というか、しあわせ。
 ようは何をして楽しい、ではなく自分達がいかに楽しいかなのだ。
この時がとてもしあわせ。
 
 そもそも幼少期あんまり出掛けず、インドアな性質で日々過ごし、たまの旅行もどちらかというとホテルに引きこもり母の作った料理を楽しんでいるタイプだった。
 おもちさんも同じタイプでようは頭のなかのキャラクター達がホテルに来たら…と妄想するほうが楽しいらしい。
 で朝食以外はずっとホテルで絵を描いていた…。なんて、コロナ的。
 ちなみに朝食は、ホテルのカフェをやめて近くのひろ―いスターバックスで桜のフレーバーづくし(おもちさんが大の桜のフレーバー好きで、Lindtもサクラショコラドリンク、マカロン、リンドールを嗜んだ)。
 テーブルが春満開になる。
 ちなみに私はチョコレートデニッシュです。

 そして朝食後、ホテルに戻りチェックアウトまでひたすら絵を描く。非日常と日常のミックス。

 帰ってきた時には、何日もいなかった気がするし、その日にとっと帰ってきた気もした。
 
 のんびり疲れた。でも、刺激的だった。
ただ日常をホテルでやっただけ。
こんなののもたまには悪くない。




2022年3月11日金曜日

 電車に乗ると思ってしまう。
特に帰宅時間帯の。

 疲れきった顔でスマホをいじる。眉間にしわ寄せて寝ている。
そして耳にはイヤホン。
 この空間の人間との関わりの遮断。
 わかる。凄くよくわかる。
 それでなくても疲れているのに、コロナ禍なのにこの密な電車。人混みはなにもしていないのに疲れるのだ。
 学生時代の頃、いわゆる都会の駅は人と人がぶつかり合うのは当たり前でなかには狂気かな、わざと体当たりしてくる人もいた。
 人が集まるとその人個人ではなくなり、また新たな物質になるのだ。

 話が逸れた。
 とにかく、人混みは自分は苦手だ。人間は情報量が多いのだ。
 コロナによって人と人が関わらなくてよくなり、自分にとってはある意味平和になった。
 だが、それによって人々は関わりかたまで忘れているのではとかおもったり。
 急に人を殺したり、自殺したり。そんな事件。
 人と関わらないということは自分自身が分からないということと同義だと思う。
人と関わってはじめて自分を知るのだ。
 平和な分、内在の悪は膨張する。まるでバランスをとるように。

 特に若い人、子供とかは人と関わらないでもいいように進化した世にいるのだから、
関わる意味とか関わりかたとか分からなくなってしまうのでは?
と、勝手に妄想したり。
 恋愛も友情もとうに娯楽と妄想になったものと思うが
今のご時世、清潔第一とかなんとかいっていたらほんとの恋愛も友情もできないのでは?
だって人間は生きているんだもの。
汚れて当然。汚なくて当たり前で、だからこそ美しいのではないかな。とか、そこはすごく古い価値観の自分。もう新しい価値は出来上がっているのだ。
 でも、関わらないことの新しい美しさはもう既に誕生してるのかもね。
 まあ、少子化問題は進むと思う。
そして、技術は進歩するのだ。



2022年2月12日土曜日

悪性腫瘍とどこまでも9

 放射線治療もおわり、一息ついた頃。

 この頃から癌再発よぼうのため‘タモキシフェン’という薬を飲まなければならなくなった。
 この薬がまた、厄介で。
要は再発防止のため胸にいくホルモンを子宮のほうにながす効果があるらしい。
 で、問題は副作用。無月経、月経異常、性器出血、腟分泌物、吐き気・嘔吐、食欲不振、下痢、腹痛、頭痛、めまい、発疹、発汗、脱毛、ほてり・潮紅、体重増加、浮腫等々。
 更年期障害みたいな症状になるらしい。二十歳そこそこでまさか更年期を味わうとはおもわなんだ。だから、妊娠もできないらしい(そんな予定はふつーにないが)。
 ちなみに自分は、体重増加の症状がすごかった。特に異常な食生活していないのに、太るふとる。もう笑うしかない。
 あと、火照りとイライラと手の痺れ。生理異常も経験しました。
なれるとなんでもないのだけれど、なれるまでがなんとやら。

 なんだかんだこの薬を5年間飲み続けなければならなかったのが一番しんどかったかもしれない。
 定期診察もうけていたけれど1時間まって診察は薬貰うだけの3分。病院あるあるである。

 入院時、先生が病室にきて描いていた絵を見て「欲しい」っていわれたので額に入れて渡した。
もう定期の診察の時は「顔見せに来てね」っていうぐらい結果は良好だった。
 まだ若いからね。なんで癌になったのか不思議なくらい今までは健康だったのだ。でもこの定期診察とタモキシフェンが癌のことを思い出される。

 闘病…って思いたくないのだ。少なからず癌は自分の一部なのだから。それと闘いたくない。
 もちろん、大変だった。大変じゃないわけがない。短いが生きてきたなかででもこんな身体的な変化は味わったことがないし、
周りの人の助けがあったからいまここで生きながらえている。
 だからこそ、私の癌を愛している。貴重な劇的な体験は宝物のように美しい。それをさせてくれた癌が愛おしいのだ。
 だからなのか、ただなんとなく‘リコピン’という腫瘍のぬいぐるみを作った。私の身体からいなくなった代わりではないが、外にでて楽しく生きてくれていたならと勝手に想像している。


 早いもので、もう5年がたってしまった。途中、コロナで病院通いできなくなり先生ともそれきりになった。
 この5年、いいことも悪いこともたくさんの変化もいっぱいあった。そして、それらの歳月に癌という経験は足場となり味つけしてくれている。自己形成の一部といったところか。それほど大事なものなのだ。


 これが私の癌との向き合いかただった。私は今も生きている。 
















2022年2月7日月曜日

せいなる問題

 うちの同居人のおもちさんはアセクシャルである。
 つまり、ただ単純な性的感情がないのだ。だからといって性欲がないわけではないのだが、女性男性も性の対象ではないというのが正しいだろうか。

 人間誰しも幼児性欲はある…と思う。
 幼児性欲とはフロイトが定義したもので要は第二次性徴…まあ要はセックスに興味もつ前、幼児段階において、近親であろうと同性であろうと自分自身であろうとあらゆる対象が性的な対象とされる…というのだ。

 表現者としてはこの問題は重要なのだ。性欲はいわゆる活動力だし、芸術とは切手も切れない仲だ。
自己というものを知る事は創造する立場なら絶対必需品だ(別に定義はしなくてもいいと思う。決めてしまうにはあまりにも人間は複雑だ)。


 そう、なぜこんな話をしたかというとおもちさんいわく、
「性的表現を経験してなくても想像できるし書けるがそういった感情はよく分からないから…難しい」だそうで。
 おもちさんも表現者なのだ。
彼女がいうには「体験はしたくない、でも中身がないのとあるのじゃ書くものが違う。
無い、という感情は寂しくもある」らしい。
無いものないとして、その条件を受け入れ、そのなかから選択するのが人生だが。


 他人を語っていたが自分はというと、曖昧だ。自分的には一番初歩的な幼児性欲の部分が一番つよいと思っている。
 信条としては自己をとことん愛しているからこそ人を愛することができると思っている。
 きっと表現者なら多かれ少なかれ、自分に性欲を感じるのではないだろうか。自惚れてなければできないよな、なんて。
 頭の中で創りだした美しい少女に性的魅力を感じるが、男性も綺麗だなと思うこともある。
 でもそれって結局のところ、自分の中のこの人いいなっていうそれが、ジェンダーに関わっているのだ。だから、自分が一番って結論になる。

 なんなら今のご時世、ありとあらゆるジェンダーの主張だけは意図も簡単にできるのだ。
 その上辺だけを見るなら本当に、多様になったと思う。
 本当に頭でっかちな人間(身体性を忘れた人間)だからこそこの性的倒錯は生まれたのだ。

 おもちさんとそんな話をしたりする。
 無いものをないと認めて選択するのが人生。そう、人間は平等に不条理なのだ。
 無い人間にしかわからない気持ちなのかもだが、無いなら無いなりに素晴らしき創造と選択がある。
 というより、自分は無いほうがよりよい結果があると思うし、創造のほうが経験よりはるかに美しかったり、現実的だったりする場合があると思う。

 なんなら、人間の性なんて創造が9割りでは?

2022年1月21日金曜日

心を読み解く心理戦 + THE MENTALIST

 もう何周目だろうか。海外ドラマ‘メンタリスト’をずーっと見続けている。

 「贅沢なイギリスな推理もに仕上げた」という話が、どこかのネットにのっていた。イギリス人がアメリカで作ったドラマらしい。
 なるほど。確かに。主人公パトリック・ジェーンの騙しうちは上品にお見事だ。


 とにかくこのドラマ、配役がメチャクチャいい。
 ジェーンさん役のサイモン・ベイカーが何個も主演男優賞をとっているのもうなずける(吹替えの郷田ひろみさんの声もすごくあってる)。目の動き、表情筋の使い方アッパレって感じである。

 その他のCBIのメンツ、その他犯人役、赤ん坊までよく見つけてきたなと思う。メンタリストの話だから当然なのかもだが、この人たちの顔芸はスッゴい細部までこだわっている。見てておもしろい。
 
 要は視聴者にもメンタリストの経験をさせてくれるのだ。
 
(ネタバレ)
 シーズン6でジェーンさんとカッコいいヒロインのリズボンが結ばれ最終的に結婚する訳だが、シーズン1から二人の愛情が見てとれる。その微妙な丁寧に描写が表現されている。恋愛の綴りとして完璧だなあと。
(記憶をなくしたジェーンさんがリズボンそっくりな人を後見人にしていたり、一番最初に渡した折り紙を結ばれた次の回でも渡していたり)

 とにかくセリフも、何でこの言葉をこの時に誰に言ったのか、探るのがめちゃくちゃ面白い。最初のキャラ設定がしっかりしてるから話の辻褄がとっ散らかることがないのかなと(レッドジョンはびっくりするぐらい呆気なかったけど…あれはある程度誰にするか何人か決めていて最後誰にするか選んだのかなと勝手な推測)。
 あのトリッキーな推理も手伝ってつい何度も見てしまう。ショーだね、まさしく。
ああ、この時にジェーンさんはこの人が犯人だって気がついてるなあ、とか。さすが主演男優賞ものの演技。眼圧がすごい。
 キャラクターが主人公問わずかわいらしいのは得である。
 
 もう何度も見すぎたせいで、冒頭数分で事件の概要がわかるのだが、作業用BGMみたいに作業の邪魔をしない、かといって聞き応えがあるドラマ。聞いているだけで感動できるのだから、素晴らしい。いつ見ても新たな発見があるのは、大切に作られている証拠ではないだろうか。
 物語は贅沢でなければ。



2022年1月16日日曜日

悪性腫瘍とどこまでも8

 癌術後。
 

 退院し、いたって良好な生活を送っていた。
 もちろん、身体の一部分がないということを身に積もらされる生活だが。
現在は慣れてきたが、この頃は右手ばかり使うと首から肩、手先にかけて痛みのような痺れがくる。
絵を描いたり、家事、スマホ、お出かけもその事を気にかけなければならない。すぐに疲れるのだ。
 身体の微妙な変化にたいしてこれだけ敏感になってしまう。身体が精密機械だといわれているのが納得だった。

 そして、癌治療最終段階。
 ついにきた。放射線治療っ!どんっっ!である。
 もう、名前だけでTHE癌ってかんじがする。
黒いマジックで線をかかれた時は、ちょっとドキドキした。ようは、この線他のところに放射線があたらないようにの印なのだ。
 つくづく、がん治療を通して思ったのは、この悪性になった細胞を弱らせるために、当たり前だが、他の細胞にも害のある治療をするのだ。医療よ、よく考えたものだ。
 場所は病院地下。ちょっと他のフロアとは違う雰囲気。静かであまり人数が少ない。
 12月、正月前に終わらせるつもりでみっちり予定がはいった。

 ちょっと関係ない話。
 放射線治療の技師さんに度々お会いして、思ったこと。え、なんで皆さんかっこいいの?
 そう、なんだか、こざっぱりしていて見栄えがいいのだ。偶然かもだが、やっぱり細かいところまで注意しなければいけないから、自然と見ためもつくろえるのかしら、とかおもったり。

 さて、話を戻す。
 通勤がてら通ってもOKとかで、朝早くから行っている放射線治療。
 体力向上のため地下鉄で行く。抗がん剤をうっていた時は、外歩いただけでもう限界で寝込んでいたのに、それと比べたら大きな進歩である。
 ただ放射線をうけるだけだが、超お洒落していった。ただの気分である。まあ、そのあとで遊ぶためでもある。
 治療だけだとそんなにかからないが、病院あるあるの待ち時間が長い。
 待合室でNHKが流れてるなか、本を読む。呼ばれる。上半身すっぽんポンになる。これまた大きな機械で寝っ転がりうであげて放射線をあびる。おわり。
 このサイクルを1ヶ月間ずっとやるのだ。
 なかなか、通学していた頃を思い出す。このちょっとした囚われが懐かしい。
 放射するのはたった3分程度だった。毎日のように顔を合わせる技師さんたちともたった3分だがよく話した。ほんと、親切な人たちである。

 さて、はれて治療をし終えたあとは大都会で遊びまくる。
 この約1年間、身体が弱ってしまったせいでまったくどこにも行けなかった。いや、行くどころではなかったのだ。だから、お金だけは異様に貯まっていた。
 高級チョコレート店に通ったり、フルーツパーラーでイチゴパフェたべたり、ギャラリーをみたり、ショップで服みたり、スーパーでちょっとした、肉やイクラを買ってきて創作料理をしたり。
 もう、治療中にできなかったことをやり尽くした。
まっ赤な服を繕ってである。この時はもう帽子だけで出歩いていた。
 髪の毛がなくなっておもったのは、とてもしっくりくるなと。
 つるっぱげが「これが私だ」と妙に納得してしまった。
 なんだかな。

 要は、夢と演出に浸ってはっちゃけたのである。
 この、はっちゃけのお陰で回復が早かったと信じている。うん。
 とても、贅沢だった。
あんまり、買い物とかお出かけとかしなたちだがこの時ばかりはすごーく楽しんだ。これぞ鬱憤晴らす、である。

 その後、放射線しながら(あんまり副作用はでなかった)遊びまくり、年内で治療を終えた。
 最後の日は技師さんがわざわざ入り口までお見送りしてくれた。やさしい。

 さて、お正月。放射線治療から解放され
喜びのあまりほとんどしたことのない年始そうそう出掛けたのだが………
 さっき、いったようにこの頃には生まれたての赤ん坊のような毛が生えはじめ帽子だけかぶって出掛けるようになっていたのだが
それが人々には奇妙に見えたらしい。そう、宇宙人到来。
まっ赤な洋服とばっちりメイク。キャップだけの頭。……まさかの注目の的。もちろん悪い意味の。
銀座や表参道ではスナップは撮られたどさ。

 すれ違い様に「オカマじゃんっ」とか、笑われる始末。そもそも、奇抜な格好だったけれど、当たり前のように病院とかでは受け入れられていたし、かなり露骨に見世物になってしまったので、ただ驚きとほんの少々傷ついた。
 そうか、自分は異世界と非日常にいたんだなと、しみじみおもいました。
 はは、今ではいい思い出です。

 そのあとも、体調がめきめきよくなり、お出掛けしてはまっ赤な服装にキャップだけは目立つようでなんやかんや見られまくった。
 でも、面白いのは病院では大好評だったのだ。人間性かな。


 こうして、癌のための治療が一段落したのであった。





2022年1月10日月曜日

富江

 作品でなんどもなんども見返してしまうのは、自分自身のなんかに触れるのだ。いわゆる、イデアってやつに。



 美少女、富江をよく知ったのは実はつい最近このまえなのだ。
 伊藤潤二さんの1987年、処女作の漫画だ。‘少女椿’もこの頃だ。
 もともと、伊藤潤二さんも富江も知ってはいたのだが美しい少女富江の画像をみる程度で深くは追求しなかった。
 
 はじめて富江に触れたのは最初期、1998年(1999?)版の映画だった。
 もともと美しい少女(好みな黒髪ストレートの)の話だと知っていたし、‘学校であった怖い話’の影響ですごく興味が湧いたわいたのが理由。
 そして、肝心の映画だが実写なのにすごく楽しめた。
 あの空気感もいいが音楽が特に好きだ。単純な怖いではなく、ホラーなのに柔らかくおもしろい、人間の狂喜の頂点の恍惚に似た圧巻。そして静かに流れていく。
 のちのち、原作の良さがちゃんと表現されてるなと思った。
 他のドラマ版や映画(色々含め8本もある)も少々見てみたが、やっぱり最初のが好き。

 それで、はまってしまい富江だけ集めたコミック上下巻を買い
アニメ‘伊藤潤二 コレクション’をみた。

 まずコミックはもういうまでもないがあの緻密な描写で描き出される独特な美しさと怖さ。
 最初期からだが、人物のラインがとても綺麗なのだ。
 女の子の脚とかすごく見惚れてしまう。あと美少女のお約束。目と髪の毛が、キラキラ。
 富江まぢ、かわいい。
もう、ホラーと美少女の関係性をこれでもかってぐらい体現していた。

 で、アニメのほうはすっごく面白かった。
 映画とはまた違った感じで、スタッフさん達の愛を随所に感じた。伊藤さんの作品は怖いけど全体的にユニークなのだ。どこか笑えるって感じ。
 富江に関しては、もう…可愛い。
声と色彩だけでこんなに嬉しくなるものか。完全に富江にやられている自分がいる…。(映画版 禁断の果実でもそうだがアニメの富江は赤い服を着ているのが印象的に描かれている。やっぱり、美少女には赤い服)
 漫画からアニメにする際におきる若干のズレを想像力で埋めて作品を壊さず、生き生きとしたキャラクターが好き。
 そう、伊藤さんの作品には美少年美少女、異形の怪異が欠かせない。その彼らが世界観を創っているのだろう。

 永遠に生き続け、美しさで老い若い男女問わず魅了し挙句の果て、殺したいという執着に刈られ終着するという富江。
 これぞ、美少女の末路。
富江は、きっと富江という新生命体たのだろうと思う。




2022年1月2日日曜日

美少女論2

 彼女たちの美しさに日々、救われている。

 ようは、ほんとの美少女なんて夢物語にちかくて、いるようないないような。美という価値観は人それぞれで、表だっての共通理念は作りものもあって……。

 つまり、基準はないということだ。大事なのはどう表現するか、どうしたら美少女という曖昧糢糊を形にできるかである。

 1998年版‘富江’なんかはいい例で、菅野さんが演じる富江は序盤顔を見せない。でも雰囲気だけで美しき顔を想像させ、長い髪と姿形、声で美少女と思わせる。

 あとは、‘女の子にパーティーで話しかけるには’。これは学校であった怖い話の作者おすすめでみてみた。
 すっごいおもしろかった。やさしくぶっとんでいて、やっぱりやさしいって話。
 そこにでてくる宇宙人の女の子ザンは、整った顔立ちではないのに可愛く、邪気なく、美少女だ。


 この前、映画バージョンの‘地獄少女’がやってたので表の画像の主人公、閻魔愛の女優に惹かれて見てみたら……まさかの閻魔愛ちゃんが、他のキャラクターよりデカイ。すごーく気になってしまう。
 まあ、演じたのがモデルの玉城ティナさんだから、しかたないのかもなのだけれど………むずかしい。

 ようは、色香の演出だ。
色香があれば、それっぽく演出できれば勝ちである。

 かつての資生堂の広告、山口小夜子さんのような醸し出されるもの。匂いたつ、ずっと浸っていいたくなるような、ミルクのような趣。
それはまさに魔性。魔力。魅力。

 学校であった怖い話なんて、ゲーム中のキャラクターのグラがその都度違うのに、言葉だけで美少女、岩下さんを表現するのだからすごい。


 大事なのは、いかにそう見せるかなのだ。でも、世の中ってだいたいそうゆうものだね。お店とか、流行とか、情報だとか。
 でも、そういう風に見せて、そのなかで本物の魔性を創り出せたらそれは永遠になるのだ。


 その永遠がみてみたい。
 美少女とチョコレートは裏切らない。