ようは、ほんとの美少女なんて夢物語にちかくて、いるようないないような。美という価値観は人それぞれで、表だっての共通理念は作りものもあって……。
つまり、基準はないということだ。大事なのはどう表現するか、どうしたら美少女という曖昧糢糊を形にできるかである。
1998年版‘富江’なんかはいい例で、菅野さんが演じる富江は序盤顔を見せない。でも雰囲気だけで美しき顔を想像させ、長い髪と姿形、声で美少女と思わせる。
あとは、‘女の子にパーティーで話しかけるには’。これは学校であった怖い話の作者おすすめでみてみた。
すっごいおもしろかった。やさしくぶっとんでいて、やっぱりやさしいって話。
そこにでてくる宇宙人の女の子ザンは、整った顔立ちではないのに可愛く、邪気なく、美少女だ。
この前、映画バージョンの‘地獄少女’がやってたので表の画像の主人公、閻魔愛の女優に惹かれて見てみたら……まさかの閻魔愛ちゃんが、他のキャラクターよりデカイ。すごーく気になってしまう。
まあ、演じたのがモデルの玉城ティナさんだから、しかたないのかもなのだけれど………むずかしい。
ようは、色香の演出だ。
色香があれば、それっぽく演出できれば勝ちである。
かつての資生堂の広告、山口小夜子さんのような醸し出されるもの。匂いたつ、ずっと浸っていいたくなるような、ミルクのような趣。
それはまさに魔性。魔力。魅力。
学校であった怖い話なんて、ゲーム中のキャラクターのグラがその都度違うのに、言葉だけで美少女、岩下さんを表現するのだからすごい。
大事なのは、いかにそう見せるかなのだ。でも、世の中ってだいたいそうゆうものだね。お店とか、流行とか、情報だとか。
でも、そういう風に見せて、そのなかで本物の魔性を創り出せたらそれは永遠になるのだ。
その永遠がみてみたい。
美少女とチョコレートは裏切らない。
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