つまり、ただ単純な性的感情がないのだ。だからといって性欲がないわけではないのだが、女性男性も性の対象ではないというのが正しいだろうか。
人間誰しも幼児性欲はある…と思う。
幼児性欲とはフロイトが定義したもので要は第二次性徴…まあ要はセックスに興味もつ前、幼児段階において、近親であろうと同性であろうと自分自身であろうとあらゆる対象が性的な対象とされる…というのだ。
表現者としてはこの問題は重要なのだ。性欲はいわゆる活動力だし、芸術とは切手も切れない仲だ。
自己というものを知る事は創造する立場なら絶対必需品だ(別に定義はしなくてもいいと思う。決めてしまうにはあまりにも人間は複雑だ)。
そう、なぜこんな話をしたかというとおもちさんいわく、
「性的表現を経験してなくても想像できるし書けるがそういった感情はよく分からないから…難しい」だそうで。
おもちさんも表現者なのだ。
彼女がいうには「体験はしたくない、でも中身がないのとあるのじゃ書くものが違う。
無い、という感情は寂しくもある」らしい。
無いものないとして、その条件を受け入れ、そのなかから選択するのが人生だが。
他人を語っていたが自分はというと、曖昧だ。自分的には一番初歩的な幼児性欲の部分が一番つよいと思っている。
信条としては自己をとことん愛しているからこそ人を愛することができると思っている。
きっと表現者なら多かれ少なかれ、自分に性欲を感じるのではないだろうか。自惚れてなければできないよな、なんて。
頭の中で創りだした美しい少女に性的魅力を感じるが、男性も綺麗だなと思うこともある。
でもそれって結局のところ、自分の中のこの人いいなっていうそれが、ジェンダーに関わっているのだ。だから、自分が一番って結論になる。
なんなら今のご時世、ありとあらゆるジェンダーの主張だけは意図も簡単にできるのだ。
その上辺だけを見るなら本当に、多様になったと思う。
本当に頭でっかちな人間(身体性を忘れた人間)だからこそこの性的倒錯は生まれたのだ。
おもちさんとそんな話をしたりする。
無いものをないと認めて選択するのが人生。そう、人間は平等に不条理なのだ。
無い人間にしかわからない気持ちなのかもだが、無いなら無いなりに素晴らしき創造と選択がある。
というより、自分は無いほうがよりよい結果があると思うし、創造のほうが経験よりはるかに美しかったり、現実的だったりする場合があると思う。
なんなら、人間の性なんて創造が9割りでは?
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