退院し、いたって良好な生活を送っていた。
もちろん、身体の一部分がないということを身に積もらされる生活だが。
現在は慣れてきたが、この頃は右手ばかり使うと首から肩、手先にかけて痛みのような痺れがくる。
絵を描いたり、家事、スマホ、お出かけもその事を気にかけなければならない。すぐに疲れるのだ。
身体の微妙な変化にたいしてこれだけ敏感になってしまう。身体が精密機械だといわれているのが納得だった。
そして、癌治療最終段階。
ついにきた。放射線治療っ!どんっっ!である。
もう、名前だけでTHE癌ってかんじがする。
黒いマジックで線をかかれた時は、ちょっとドキドキした。ようは、この線他のところに放射線があたらないようにの印なのだ。
つくづく、がん治療を通して思ったのは、この悪性になった細胞を弱らせるために、当たり前だが、他の細胞にも害のある治療をするのだ。医療よ、よく考えたものだ。
場所は病院地下。ちょっと他のフロアとは違う雰囲気。静かであまり人数が少ない。
12月、正月前に終わらせるつもりでみっちり予定がはいった。
ちょっと関係ない話。
放射線治療の技師さんに度々お会いして、思ったこと。え、なんで皆さんかっこいいの?
そう、なんだか、こざっぱりしていて見栄えがいいのだ。偶然かもだが、やっぱり細かいところまで注意しなければいけないから、自然と見ためもつくろえるのかしら、とかおもったり。
さて、話を戻す。
通勤がてら通ってもOKとかで、朝早くから行っている放射線治療。
体力向上のため地下鉄で行く。抗がん剤をうっていた時は、外歩いただけでもう限界で寝込んでいたのに、それと比べたら大きな進歩である。
ただ放射線をうけるだけだが、超お洒落していった。ただの気分である。まあ、そのあとで遊ぶためでもある。
治療だけだとそんなにかからないが、病院あるあるの待ち時間が長い。
待合室でNHKが流れてるなか、本を読む。呼ばれる。上半身すっぽんポンになる。これまた大きな機械で寝っ転がりうであげて放射線をあびる。おわり。
このサイクルを1ヶ月間ずっとやるのだ。
なかなか、通学していた頃を思い出す。このちょっとした囚われが懐かしい。
放射するのはたった3分程度だった。毎日のように顔を合わせる技師さんたちともたった3分だがよく話した。ほんと、親切な人たちである。
さて、はれて治療をし終えたあとは大都会で遊びまくる。
この約1年間、身体が弱ってしまったせいでまったくどこにも行けなかった。いや、行くどころではなかったのだ。だから、お金だけは異様に貯まっていた。
高級チョコレート店に通ったり、フルーツパーラーでイチゴパフェたべたり、ギャラリーをみたり、ショップで服みたり、スーパーでちょっとした、肉やイクラを買ってきて創作料理をしたり。
もう、治療中にできなかったことをやり尽くした。
まっ赤な服を繕ってである。この時はもう帽子だけで出歩いていた。
髪の毛がなくなっておもったのは、とてもしっくりくるなと。
つるっぱげが「これが私だ」と妙に納得してしまった。
なんだかな。
要は、夢と演出に浸ってはっちゃけたのである。
この、はっちゃけのお陰で回復が早かったと信じている。うん。
とても、贅沢だった。
あんまり、買い物とかお出かけとかしなたちだがこの時ばかりはすごーく楽しんだ。これぞ鬱憤晴らす、である。
その後、放射線しながら(あんまり副作用はでなかった)遊びまくり、年内で治療を終えた。
最後の日は技師さんがわざわざ入り口までお見送りしてくれた。やさしい。
さて、お正月。放射線治療から解放され
喜びのあまりほとんどしたことのない年始そうそう出掛けたのだが………
さっき、いったようにこの頃には生まれたての赤ん坊のような毛が生えはじめ帽子だけかぶって出掛けるようになっていたのだが
それが人々には奇妙に見えたらしい。そう、宇宙人到来。
まっ赤な洋服とばっちりメイク。キャップだけの頭。……まさかの注目の的。もちろん悪い意味の。
銀座や表参道ではスナップは撮られたどさ。
すれ違い様に「オカマじゃんっ」とか、笑われる始末。そもそも、奇抜な格好だったけれど、当たり前のように病院とかでは受け入れられていたし、かなり露骨に見世物になってしまったので、ただ驚きとほんの少々傷ついた。
そうか、自分は異世界と非日常にいたんだなと、しみじみおもいました。
はは、今ではいい思い出です。
そのあとも、体調がめきめきよくなり、お出掛けしてはまっ赤な服装にキャップだけは目立つようでなんやかんや見られまくった。
でも、面白いのは病院では大好評だったのだ。人間性かな。
こうして、癌のための治療が一段落したのであった。
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