2021年8月30日月曜日

そのなかにいたい

 絵を描いているとき、BGM代わりに映像をながしている。映画ドラマ…洋画のほうがおおいかな、アニメもながす。ネット配信も時々。ただ、ただよく見なれたものをながす。‘よく’ってレベルではない。あぁ、これだとおもったらずーっとながす傾向がある。音楽もそうだが、なん十回とながす。その日の気分でずーっとながす。それは幼少のときからで、ビデオテープの録画された、アンパンマン、名探偵コナン、セーラームーン、でたらめちゅーずでぃ(ポンキッキーの爆笑問題さんがでてたネズミのやつ)、ディズニー アラジンを盲目的にながしていた。たぶん、現在の感性があるのはこの頃の影響かと。

 まるで、それは子守唄。

 今でもコナンの映画(初期のやつ)がHuluでやっていたらそればかりながすし、もののけ姫もなんどみたかわからない。あとメンタリスト、チャーリーとチョコレート工場、進撃の巨人、AKIRA、富江、ティファニーで朝食を、プラダをきた悪魔…等々。ネット配信だとバーチャルおばあちゃんの2時間クリアの‘DARK SOULS3’とか。そう、なんでもジャンル問わず、ながす。が、自分のなかでは共通点がある。
 その作品の‘空気感’にはいりたいかどうかである。
 その日の気分…というよりその時の波長があったら、その世界の空気感にはいるため、ながすのだ。波長があうかがポイントだ。コナン君の映画も波長が合わないとながせない。そう、話がつまらないとか演出が雑、キャラクターが嫌とかは二の次で、その作品全体に統一している‘雰囲気’が、ながすのに大事。作品の世界の空気感に色香漂い、そのなかにずっといたいと思えるかどうか、である。ただ、作品の雰囲気が本当に感極まる!だと、みるのに集中しすぎてBGMにならないのだが。セーラームーンはビジュアルに思い入れが強すぎて、プリンセスチュチュは感動しすぎて、時計仕掛けのオレンジはビジュアルと音楽が凄すぎてながせない。
 一方、もうその空気に居たすぎて一心でながしつづけた作品もある。天元突破グレンラガンの最終回。シモンの「迎えにきたぞ、ニア」等々を、ききたくて。宇宙を掛けた戦い、そして別れ。永遠につづく螺旋。あと、少女革命ウテナの最終回。「やっと、あえた」ウテナちゃんの言葉、音楽、空気、舞台、演出。あれに何度酔ったか。そして進撃の巨人 シーズン1の映画。あの異様なビジュアルから漂う空気、匂い。人間模様、放つ強い言葉とどうしようもない現実、残酷とは関係なく美しい大空。
 どれも物語のスケールがなかなか大きいとおもっている。その空気のスケール感が、絵に直接関係するとおもう…というより自分が、その空気に触れていることにより絵がよりおいしくなる気がする。雰囲気のインスピレーションだ。
 今おもえば、幼い頃もそうだった。物語の世界に浸って、手を動かしている。気分で絵の良し悪しがかわるのだから当然だが。絵を描くことは眼だけで行うのではない。もちろん脳と、手の一体化。それだけではなく、からだ全体で音楽をたのしむのと同じで身体の感覚表現なのだな、とおもう。

 話が逸れるが、最近このところ、ゲーム‘学校であった怖い話’にはまっている。自分の小学生の頃と時代ははずれていたがスーパーファミコンをするのが好きだった。同居人のおもちさんとたのしんだものだ。もちさんがゲーム内の文章を朗読してくれて、自分が基本のプレイをする、そんなやり方。そして父が買った、学校であった怖い話をプレイしたのだ。怖い話はそんなに好きではなかったが、興味本位でやってみた。驚くべきかななんと、語り部の話を一通りきいてしまった。
 学校であった怖い話はノベルゲームである。幼い頃の自分はノベルゲームの存在さえ知らなかった。でも、なんだかんだあの独特な空気、語り部の人物描写、狂気のエンターテイメント性に良さを感じてしまったのだ。
 そして、時は過ぎ現在。そう、おもちさんがまたプレイしだした。新シリーズがでているらしく、夢中にやっているのを味見した。それで、こちとらもはまってしまったのだ。ひさびさだったが、色褪せることなくまた、新シリーズはおもしろさはグレードアップしてた。
 それで気づいたのだが、あのシリーズの作中全体にながれている空気感がとても心地よいのだ。いや、ノベルゲームはほとんどやったことがない。でも、学校であった怖い話に関していえば、感情が動かされるというか、そのストーリー、台詞、音楽、ビジュアルに考えさせられ、その感動は自分の絵に熟しをあたえてくれる気がしてる。そう、あの話の空気に浸らなきゃという気分になり、気づけば各々シリーズを2周してる。やらかしてます、はい。栄養になっております。まぁ、こんな気分になるのはひさしぶりなので、おもちさんと楽しもうと。

 乱暴な話だが、作品はなにか駄目でも、空気さえよければ味わい深いものになるし、それらの作品に幼い頃から浸ることにより、自分にとっての描く行為につながっているとおもうのだ。空気よければすべてよし、である。





2021年8月27日金曜日

0と1の世界

 ‘現代は0と1できている’。そう、高校生のとき、確か養老孟司さんの著書でよんだ。

 現代の都市は二進法、つまりコンピューターとおなじ0と1の情報できている。(ほとんどのものが0と1でできてるってすごい世界観だ) 都市発展のスピーディーさにあわせて、コンパクトにされた情報が重要となった。それにあわせて情報都市は、驚くべき早さで作られ安定した。安定して人間が増えた。人間が増えたためコントロールしなければならなくなった。だから簡略化した0と1が必要。いや、脳の安定したい性質によって0と1がつくりだされたのだろう。0と1が織り成す情報は変化しない。情報を扱う人間が変化するのだ。しかし、脳は安定を望む。脳が安定を望んだ結果、恐怖、わからない、得たいの知れないものをできるだけ排除し、脳がコントロールできることを無意識に望んだのだ。

 人間は0と1の中で進化、あるいは退化した。0と1のなかで感覚は必要なくなり淘汰、あるいは衰えた。0と1は単純。誰にでもわかるように、変化しないのだから。でも0と1は結局、人間がつくりだしたもの。0と1の外には世界があり、0と1をうけとれないものもあるし、影響しないものもある。そう、0と1の外側が、人間は衰えてしまったはずの感覚が刺激を欲している。安定を望んだはずなのに、刺激がなければ生きていけないのだ。0と1 と、人間の間で不具合をおこし不調和になるのだ。そりゃそうだ。変化しつづけ、永遠に不完全なものが人間。刺激が欲しいのが人間。でも、その人間が0と1が都市をつくっているのもまた、事実。

 こんな話してると、映画‘マトリックス’をおもいだす。実はほんの数ヶ月まえに見たばかりなのだ。名作だって聞いていたけど。はじめて見て、いやぁ、なるほどこれを2000年につくっていたとは!と、感動した。主人公のネオも端正で美しかった。登場人物色っぽかった。話が逸れた。それは物語の重要な色づけとして、今はとりあえずヨコにおいておこう。

 あれこそ0と1の都市と、人間が捨てた感覚や得たいのしれないものがいる世界と、創造で全てをこえる可能性。あぁ、これぞ現代の世界観。0と1の世界で生きなければならない人間の可能性だと。もちろん、0と1は人間が作り出したのだ。人間の脳は安定を求める。しかし、同じぐらい感覚が刺激を求める。それは本能。原始的なもの。でも脳は、無意識にバランスをとる。0と1の世界は安定。マトリックス…人間が安定を求めた結果、機械(これも安定の副産物といえよう)が作り出した虚構の世界。それに対抗するように荒々しい訳のわからない感覚の世界を求める人間。刺激、本能がなきゃ生きられないのだ。あぁ、これぞ人間の心理。進化した人間の矛盾だ。前頭葉の未発達な、他の動物はこんなこと考えないし、必要がない。人間はずっとこの矛盾のなかで生きつづけなければならないのだ。

 心理があるのに、すでにつくられてしまったのだから仕方がない安定のマトリックスの都市。矛盾に‘希望の光’があるならば、バランスと未知なる創造性だろう。主人公ネオは安定しすぎた世界に違和感を抱き感覚をもとめ、創造で仲間を救済に導いた。そう、創造はどこまでも自由。現実を超越した身体感覚。あれは、体験してみたい。創造を豊かにするのはいつだって、安定した世界ではなく心理と刺激だ。外に宇宙があるように、人の内にも宇宙はあるのだ。それが具現化できるのなら、きっと楽しいだろう。




2021年8月22日日曜日

あたまからはなれない心理

 突然、稲妻にうたれた。

 幾つだったか、もう、おぼえてないけれど‘美少女戦士セーラームーン’の火野レイこと、セーラーマーズが白い脚にまっ赤なハイヒールを履いて情熱を纏う姿、形がとてつもない衝撃だった。‘ゴッドファーザー’のマイケルがアポロニアにあった時みたいに。まさに、運命の恋人。赤いハイヒールに心奪われた。あれに出逢った瞬間、すべての筋が1本通った気がした。
それはもう、抗いきれない心理。それから、どうしてもその心理を手もとにおいておきたくて、幼いなりに考えた結果、描いた。まだクレヨンしか知らないので、赤いクレヨンでとにかく描いてみた。母の証言によると、画用紙に下から、描いていたらしい。それで画面にマーズの頭がはいらないと、即、捨てていた。我ながらなんて、潔い。

 それから、数十年。その心理の追求、探求、欲求の日々だった。ありきたりの表現で魔法にかかったみたい。そう、とり憑かれたみたいに。赤いヒールは今でも追求心理のきっかけで、そこから色んなものを探求し、欲求をみたしてきた。浅ましきかな、すぐ渇いてしまうのだが。人間の欲望の形だからしょうがない。でも、出逢ったからこの道みたいな、座標みたいなものが、いつまでも見通せるんだなと、かんじる。色んな事を知らないし、わからないがそれだけははっきりしている。だから求め続けるしかない。



2021年8月21日土曜日

のどから手がでるほど

 ココアじゃない、麦芽飲料。っていったらMILOだ。栄養機能食品ってでかでかと銘打っている。鉄は女性にうれしい栄養素だし、ビタミンがめっちゃはいってる。MILOの主成分、ブドウ糖は脳の栄養だ。そんですごくバズっている。なんと、2回も販売休止してるらしい。スーパー、ネット販売からこつぜんときえた。最初はSNSで、次は、テレビで「貧血がなおった!」「ミロ活してます!」って話題沸騰。またきえた。そんで、ネットで高額転売が横行したとか。転売はまだ法律で取り締まってないらしいので。すごい流行力。

 このMILOをつくったNestléは、もと赤ちゃん用の粉ミルク工場で、チョコレートの歴史においてミルクチョコレートをつくる立役者となるスイスの会社だが、世界恐慌で失業した家庭で子供たちが栄養失調にならないように1934年オーストラリアで開発されたとか。なんて高尚な理由なんだ。人々を安定させるための救い主だったのだ。わお。

 日本にきたのは1973年。日本では子供の飲み物として輸入されたが、今じゃ大人のやさしいお友達。麦芽らしい香ばしさ、ココアのマイルド感。久しぶりだった。あかぐま幼少以来だ。チョコレートと、ほうじ茶やコーヒーにあわせるのも香ばしさがチョコレートあうからだとおもう。独特のうまみだが、ちゃんと飲みやすい。素晴らしいね。最近はまた店頭に並んでいるので流通が安定したのかな。森永や明治もミロみたいな商品をだしているらしい。ちょっと高めだが。おいしい健康。まぁ、あかぐまにとっては、おいしいのほうが重要だが。


 

2021年8月10日火曜日

愛のサイズ感4

 持ち運びに便利。食べやすいサイズ感。口どけそのまま。ブレイクタイムのお供にぴったり…とね。Lindt、リンドールスティック。あのスティックの感じ。いいよね。かわいいよね。

 はじめてリンドールが売り出されたとき、板チョコレートだった。外国だとまだ、当初のままの板チョコレート状のものがあるらしい。ちょっと気になる…。まぁ、板チョコより、日本ではサイズ感的に、リンドールスティックのほうが売れるのだろうな。あんまり日本人チョコレート食べないし。だがあかぐまは、スティックのちいさく割った感じも好き!だからいいけど。

 そんなこんなでまたまたつくったリンドールBIGシリーズ!今回はリンドールスティックでお送りします。前つくったリンドールタブレットとおなじサイズ感。今回のスティックは中身をどうするか悩みつつ結果Lindtの紙袋を組み合わせクッション材でつつんだ。最近、大きさがアレなだけに綿じゃまにあわないので、YouTubeのほうにあげたけれどバランスボールでノーマルのリンドールボールをつくった。リンドールに乗れます。どんどんおおきくなります。

ふふふ。






2021年8月4日水曜日

少女 と チョコレート。

  本を読むと、いろんなものを感じさせてくれる。その小説の世界観や、空気感、言葉や登場人物がかもし出す雰囲気を味わうのが好きだ。そのことがまたインスピレーションにつながる。


 そこにまぎれこむ、”チョコレート”という言葉。あかぐまはチョコレートが好きだから反応するのかもだが、この言葉が放つイメージは、すばらしい甘美なイマジネーションをその物語に加える。一匙。スパイスみたいに。そうあかぐまの読む本はまま、チョコレートが登場する。


 物語上の人物が食べていたり、その人を例えるために使ったり。あかぐまの読んだもので、児童書籍の”ヴァンパイアのキス”があるが、でてくる主人公の少女、レイヴァンは好んでチョコレート味のアイスクリームやシェイクを飲み食いしているし、好物のスニッカーズを横取りされてキレている。また彼女のボーイフレンドのことを、チョコレート色の瞳といっていた。

 また”ロイヤルバレエスクールダイヤリー”で、主人公エリーのおやつ時間”タック”でチョコレートバーを食べたり、ハーシーズのキスチョコをクリスマスプレゼントにもらっていた。ガールズナイトにチョコレートを持ち込んだりしている描写は、たまらない。

 以前ブログに書いたことがあるかもだが”ミラクル・クッキーめしあがれ”でルルは自分のパパをチョコレートエクレアに例えている。同シリーズの別巻でルル自身願いをかなえる”ウィッシュ・チョコレート”をつくっている。

 そして、あかぐまの好きな作品、森茉莉さん著書”甘い蜜の部屋”でモイラのパパが喋る”ママ”の言葉の音に、彼女はあまいミルクチョコレイトをかんじていた。


 まぁ、小説に限っていえば、赤熊が覚えているものはこんなところだろうか。ほかにもああった気がする。要はイメージの問題だ。チョコレート以外の食べ物もそうだが、その描かれたひとにイメージをあたえるのに都合がいいのかな。おいしそうなイメージ、その人物描写と説明。チョコレートの口の上に乗った心地がそうさせるのではないだろうか。とりわけチョコレートは、とても素敵に見えてしまう。おいしいもんね。それに、上記の少女とチョコレートはとても相性がいいなと、夢見心地をひとりごちる。あー、チョコレート食べよう。