2021年10月30日土曜日

コラソンのときめき

 ハート、が好きだ。幼いころから、ハートの形が好きだった。あの独特な左右対称の愛示す形。素晴らしい。とくに真っ赤なハートは格別。情熱的だ。情熱はいい。よく絵にも描く。その情熱ゆえに(?)。そのマークだけで愛が表現できるなんてすごくない?って話である。


 で、話が飛びます。そろそろハロウィン。ここ近年いろんなとこでメキシコのハロウィンの催しをよく目にする。

 はじめてみたとき、メキシコハロウィンは独特だなーと。呪術的で骸骨は花で埋め尽くされカラフルのハッピー感満載。かわいいである。死者を楽しくお出迎えって、暖かいメキシコならではって感じがする。

 で、なにが言いたいか。調べてるうちにメキシコの飾りのなかで、よく真っ赤なハート見かけるなーと。しかもそれが装飾的だったり、燃えてたり、剣ささってたり。もろ好みである。気になってちょっと調べてみる。


  メキシコで、ハートとはCORAZON‘コラソン’は心臓を意味している。 メキシコ人の多くはキリスト教で、マリア様の心臓ということらしい。 人の心も表現していて、悩みを取り除いたり、あとは愛の意味がある…だそうで。


 わーお、色っぽい。あの壁飾りが部屋いっぱいに掛かっていたり、ネックレスのモチーフだったりすると画像とかみるとすごくドキドキする。心臓っていいよね。

 DOLCE&GABBANAなんかは、バックや洋服にコラソンをあしらい、それを看板にしてるほど愛に溢れている。すっごく華美。あの世界観…結構すきなのだ。


 ハートは、あたりまえに街に溢れててもう、みただけでそのすりこまれたイメージにより、ドキドキする。自分のまわりにも当然のごとく、ハートで溢れかえっている。

 で、ハートがとっても好きなのだが、もっとも古い自分の記憶を辿ると、それはあの伝説的少女漫画原作アニメーション、‘美少女戦士セーラームーン’まで辿り着く。

 そう、セーラームーンシリーズの第三シリーズのSで登場した、コズミックコンパクトにそっくりなのだ。というかあれは、セーラームーンにとって幻の銀水晶、つまり彼女の命、心臓なのだ。その具現化したものがあのコンパクト。そして武器、ハートムーンロッドにもコラソンがあしらわれている。

 アレ初めてみたとき自分のハート鷲掴みにされたのよね。はは…。真っ赤なハートのコンパクト。開けると中にはミラーとハート型のクリスタル。もう胸キュン。

 当時、宝石屋さんの娘の武内さんだから描けた世界だと思う。あれは燃える。その後セーラームーンたちは他の戦士たちもスーパーセーラー戦士も胸のリボンにハートをかかげる。美少女の胸にはコラソンである。というより、美少女の命=コラソン。素晴らしき方程式。


 情熱の象徴。しかも可愛さも、あり。よく作品にもなんだかんだ取り入れている。もちのもの、コラソンだらけ。輝きは永遠。自分の思いの具現化………心臓万歳である。





2021年10月24日日曜日

悪性腫瘍とどこまでも4

 二十歳で癌になり、抗がん剤を打ち免疫力が下がったところで、肺炎になった。


 レントゲンには真っ白な靄。母によるとあれが肺炎というものらしい(レントゲンって綺麗)。まぁ、そんなこと気にならないぐらい咳疲れしていたのだが。

 酸素ボンベなるものもこの時はじめて着けた。少し呼吸が楽になる。あと酸素飽和度計もつけられた。最初は様子見でこのまま帰らされる雰囲気だったが、やはり母の予想通り即入院。その日たまたまいた担当の内科の先生も飛んできた。あら先生、いらっしゃたのねって感じである。一通りはなしを聞いてストレッチャーで15Fの病室へ(もちろん病室もストレッチャーもはじめて)。ストレッチャーからの景色は違和感しかない。天井が見えているのに狭い空間に押し込められた気分だった。
 病室は4人の大部屋か2人部屋、あとはちょっとお高い個室とがあり、自分は空いている2人部屋のドア側に入ることになった。無料Wi-Fi完備のテレビ付きである。ベッドがリクライニング式!感動した。
 すでに病室で、母があらかた荷物を棚にしまっておいてくれた。「後で荷物を自分のいいように片付けてね」と言い残し、帰っていった。その後も看護師さんが入れ替わり立ち替わりで入院時の説明、体温測定、体重測定、入院食のアレルギー確認、あと治療にあたる主治医とそのチームの先生の挨拶(内科の主治医の方は若いのにもうチームをもっている)、何が今回の肺炎の原因かの質問等々…ひっきりなしに人がでたりはいったり。あとは痰出しもした(全然でなかったし、出そうと意識するとめちゃ苦しい)。
 夕飯までもう少しってところで、少し落ちついたので洋服の整理でもしようかとおもい立ち上がった。とたん看護師さん達が血相を、変えて3人飛んできた。なんか悪いことしたっ?!ってかなり驚いてしまった。しかし、すぐに年長であろう看護師さんが安堵の表情になり、残り二人をもどるように指示すると、自分に向き直りました。
「あっ、えっ、棚の整理しようかなって…」と自分が焦っていると看護師さん一言。
「一旦落ちつこうか?」
 はい。緊急入院したんだから当然だけど、なにか異常があったときにナースセンターに知らせが行くみたいで…急に動いたことにより酸素飽和度が下がったようで…気づかず呼吸が浅くなっていました……。酸素ボンベつけて楽になったから、今まで苦しかったことを忘れてたんだよね。看護師さんたちが来るその早さと言ったらもう…神対応な看護師さんたちであった。

 7月の暑い時期の入院だったが病院は当然のように冷房が一定にかかっておりかなり快適…寒すぎるぐらいだった(この頃の自分は髪の毛が当然のようなくなっていて院内で自前のキャップをかぶりどうみても癌治療者ですって見た目だった。で、この時気づいたのだけれど頭がめちゃめちゃ寒いっ!なぜスキンヘッドの人が冬場帽子被るのかがわかった。毛で覆われてない頭は裸同然なのだ)。
夕飯はそこそこ食べれた&おいしかったと思う。病院食=不味いのイメージが変った。そして、しばらく咳で痛い身体と対話しつつ早い就寝を促される。確か9時。それでも眠れた。それだけつかれていた。
 しかし、咳は寝かしてくれない。真夜中咳が苦しくて寝てられない。よく聞いてると他の病室でもゴホンゴホンしてる。苦しそう。あと、大変だったのはトイレ。一人でいけないのだ。まぁ緊急入院するぐらいの症状なのだから仕方ないけど、まさかトイレでナースコール使うとは。…車椅子でトイレに行く…不思議だ。
 うとうとして起きてを繰り返し、一日目の夜はなんとかやり過ごした(どこでも寝れるタイプだが興奮すると頭が活動的になるのでだいたいいつも3時ぐらいにはいろんな事を考えてベッドにいる)
 二日目。点滴やらなんやらを打ちつつ様子見。母が入院荷物に入れてくれた画材一式で絵にも手がつけられるようになった。入院前はそれさえできなかったので進歩である。熱は下がらないが朝食は美味しく食べられた。この日は日曜日だったので昼には母が見舞いに来てくれた。いくつかファッション誌と愛読書を家から持ってきてくれた。助かります。身体が肺炎に引っ張られて思うように生活できないが、それはそれで面白かった。真剣に自分の身体と向き合える。それにそうしないと真面目な話、生きていけないし。すごく自分の身体に耳を傾けた。
 それにその夜、ホントにそうなった。就寝後、突然咳が止まらなくなった。苦しくて苦しくて涙が滲んだ。はじめは我慢できそうだったのだが、長く続いてさすがにおかしくなりそうだったのでナースコールした。看護師さんが来てくれるが咳で状況説明できない。身体を横になるよう促される。それでも咳は止まらず胸が張り裂けるかと思った。夜手元の電気だけであたり真っ暗なのに、頭が真っ白になる。息できないってこういう事かってどこか遠くでおもった。咳はまだ止まらない。そして、息が詰まる。ホントに息できなくなった。そういえば入院の説明時酷くなったら気管支切開するっていってたっけ…回らない頭にふとホントにそうなるかも、とよぎる。だが、こんなことで死ぬわけにはいかない。渾身の力で吐き出した。出たのはこれでもかっていうぐらい大きい痰。口に入りきらない痰。のどにこれが詰まっていたのだ。苦しいわけだ。そして、胸とのどは張り裂けるかと思うぐらい痛かったが、やっと眠れた。長い夜が明けるのだった。


 そこからは、ゆっくりと回復へ向かっていた。母は毎日見舞ってくれた。仕事終わり(地元からわざわざ)だというのにすごい人である。同居人のおもちさんも仕事のある日は必ず帰りに来てくれた。毎回お土産のフルーツやスイーツ、成城石井の赤いキラキラしたハートのチョコレートを食べることが幸せだった。食事が喉を通らない時は好きなものを思いっきり食べる…という話をがん治療が始まるとき先生に言われていた。だから好きなものをいっぱい食べることにしたていた。見舞い中に院内の18Fレストランに寄ったり、病室の階に眺めのいいラウンジで話したりは入院中の楽しみの一つだ。
 身体の調子がだんだん良くなり日中は絵を描きまくっていたり、看護師さんや薬剤師さん、お隣のベッドの人といろいろお話した。その頃の自分は手作りキャップ(赤いのとかハートがついたのとか)をかぶり、牛乳プリンやスッパマンのTシャツに真っ赤なステテコを履いて闊歩していたので目立っていたらしい(そもそも自分くらいの年の人が同じ階にいない。若くても30代だったから浮いてた。自分より若いともっと重い症状になってしまうのでなかなか会えない)。ベッド周り真っ赤だったのでそのことについてかなり話しかけられた。おとものキティさんぬいぐるみも話題の的である。まぁ、目立っていたと思う。普段あんまり人と会話しないが、おかげでいろんな話をきけた。
 後は夜中の散歩。やっと車椅子が要らなくなり調子がよくなる。日中はベッドで絵を描き続けてる…のはいいのだが問題はそのあとで体力はないのに身体が全然動かさないので突然、夜中目が冴える。全然眠れない。頭が過回転。普段日常過ごすだけでも身体を動かしてると実感。もうそしたら看護師さんが巡回してようがなんだろうが散歩するしかない。出歩くと、他の患者さんも一緒みたいで、ラウンジとかに座っている。夜の病院はとてもミステリアスなのだ。ちょっと夜中の病院徘徊するとかなんかゾンビに見えるのでは、とちょっとびくびくしてみたり。でも月明かりがさしこむ高い天井の入り口、18Fのラウンジはとても見晴らしがよく、早朝(朝方2時頃)活動的に働く車の光はまるで生命力もった生き物みたいでとても綺麗だった。そこをたった一人、独占して眺めてられるのだから贅沢である。

 さて、大体2週間ぐらいたっただろうか。入院になれたころ。ちょうど抗がん剤の最後のセットをやり終える期間とかぶってしまった。やってもうた。いや、肺炎なんだから仕方ないけど。でも、調子いいし最後とっとと終わらして、早く手術したいっておもっていた。治療、長引くのがいやだった。それで、早く内科の先生に今の症状確認したくて看護師さんを2
回か呼び出した。忙しい先生が捕まらないのは分かっていたがなんだかいてもたってもいられなくなってしまう。その時、看護師さんに「なにか不安なの?」ときかれてはたと気づいてしまった。…自分は不安だったのかと。看護師さんの前で泣く事はなかったが、母の前で涙がでた。よほど気を張っていたのだと自分でやっとわかった。自分は普段そんなタイプじゃないのでなんかちょっと可笑しい。結局、大事をとって抗がん剤は延長となった。手術は遅れるが仕方ない。わざわざ病室まで来て説明してくれた内科の先生、ありがとうです。
 入院中、外科の先生も来てくれた。「病室、真っ赤だね!肺炎はやく治しちゃいなさいよ」だそうで。相変わらずである。そのかいあって後は順調に退院に向かった。


 退院日、とても厳かだった。
朝検温にきた看護師さんは最初に「一旦落ちつこう」の方で、アートの話とか自分の生いたちとかそんなことあまり他人にしたことないのにその方に話してしまった。また遊びにきてね、といってくれた。
 父に久しぶりにあう。車で迎えにきてくれたのだ。懐かしすぎてハグしてしまった。帰りは母が持ってきてくれた、赤い長袖ワンピースにきがえた。夏の日差しだが冷房の涼しさの為、長袖だ。
 病院からでた久々の直射日光は身体に響く。呼吸の仕方に違和感を覚える。そう、いかに病院が整えられた空間かを知る。退院祝に銀座でお茶していくことにした。が首都圏の道路は怖い。間違えてホテルの駐車場に入り込みあたり黒塗り車しかない時はビビってしまった。無事デパートへ。美味しい紅茶とデザートをいただく。
 しかし、脳は久々の地上で興奮状態だが体力は限界。家についたら即ベッドへ。開けっ放しの窓から流れ込む湿度がなんか気持ちいい。なんか雲の上の世界を味わえた貴重な体験、すごく楽しい旅だった。




2021年10月8日金曜日

悪性腫瘍とどこまでも3

 抗がん剤ファーストインパクトの衝撃をなんとかやり過ごし、抗がん剤が生活の一部になってきたころ。射った直後はダルく横にならないとだが、その後2~3日たてば家のことをこなしたり、絵を描いたりができるようになった。

 弱った身体に意識を傾けることがあたりまえになる。以前から自分にとって私はなにより大事なものだが、身体にそれまで以上に気を配った。それを教えてくれたのは抗がん剤を射つにあたって、レクチャーや相談を、つけつけてくれる病院のセンターだった。

 髪の毛が抜ける前。自分以外の利用者も交えつつそのレクチャーは、とても参考になった。まずすべての毛が抜けるとはどういうことか。眉毛がないとすごく怖い印象になるとか、かつらがなぜ不自然になるのか…これはもみあげがあるかないかである。ないと確かに変なのだ。あとはかつらの時はメイク濃いめでとか。体力的にめんどくさかったら眼鏡、マスク…これは下がる免疫力にも対応して出かけるときは必ずつけた方がいいと。それからかつらの高い、安いの違い。爪の手入れ…これも驚いたのだが抗がん剤で爪がぼこぼこになり変色し抜ける。だったら、つけづめをつけたり保護用のマニキュアをつけたらOKとか。あとは乾燥。皮膚が乾燥しまくる。こまめな水分補給(これは前からやっていた。抗がん剤のあと口の早く身体の中の薬を薄めたくて大量に飲んでいた)と保湿ケアをしてくださいとのこと。なるほどな話ばかりだった。

 最後に、これらを教えてくれた方がいっていたのは、こうなったら非日常として‘楽しめ’ってことである。変化を落ち込まず、今までやったことないものを楽しめと。すごーくためになった。

 そんなありがたい話をもとに、自分は色々試してみた。つけまつげ、つけづめ(絵ばかり描いていたのでやったことがなかった)本格的にメイクしてみたり、マスクも、かわいいものをつけた。かつらはおもいきって薄いピンク色やハニーブロンドをつけた。いつも着ている赤い服にすごく似合った。銀座で外国人のスナップの人にも声をかけられたぐらいだった。地元じゃかなり浮いたけど。でも楽しかった。身体表現の新たなる可能性である。

 そんなこんなで、外に出かけるのはとても楽しかったが、すぐにバテてしまう。日に日に体力は衰える。しかし、脳みそと精神は元気で、母いわく「なにがなんでも生きてやろう」って感じだったらしい。確かに必死だった。当時の絵にもありありとでている。
 しかし、食欲も免疫力も下がる一方で1回5月頃、高熱と脱水と低ナトリウムで緊急で近所の病院にいった。熱が40°近くあるのに水、スポーツドリンクが飲めず嘔吐。激しい目眩と頭痛。耐えきれず叫んでしまった。車で病院に、そして車椅子でベッドに運んでもらい点滴を射ってもらった。車椅子なんてはじめてでいつもより目線が低いのは新鮮だった。まぁそんなことより苦しかったんだけど。
 いや、低ナトリウムは恐ろしい。本当に恐ろしかった。この時から、食欲なくても塩の入った生梅飴だけは舐めるようにした。

 そして6月頃、抗がん剤が後半になるかならないかの頃。喉の調子が変になってきた。咳がでるようになった。なにしてるでもないが、咳がでる。軽く喉がつまる感じ。それから数日で、食事するたび咳がでてほとんど食べれなくなった。かろうじて食べたあとも咳が止まらず、横にならなければならなかった。いままでも、何かやるたびに少し横になって休むのは当たり前だったが、すぐ回復した。しかし、今回のこの咳は全然おさまらない。日に日に酷くなる。段々胸の骨や背中が咳のしすぎで痛くなる。咳のせいで息ができない。母がこれはまずいとまた、急遽近所の病院へ。また車椅子でこの前のベッドに運んでもらう。起きあがっては激しい咳がでるので、寝ながら多分レントゲンを、とった。明確にはあまり覚えていない。その後、すぐにお医者さんが結果をだしてくれ、掛かり付けの病院にすぐ診てもらってくださいと、手筈をすぐ整えてくれた。朝一番だったが、もうお昼だった。会計がすむまで病院食堂でコンビニ塩レモン春雨スープと、プリンを買ってもらったが、春雨スープは…だめだったので遠慮して、プリンのみいただいた。甘さが痛んだ胸をとろかす。
 それですぐさま、母は入院自宅をし、都内の病院へ車で向かった。休日だったが、道路は空いていてはやく着いた。この時の道路は、またいつもと違った景色で都会を流すのもなかなか面白い。身体はそれどころじゃないが。
 休日の病院は閑散としていた。裏口から入り普段は小児科だが、休日は緊急診察室になっているところに通された。また車椅子で移動。待合室にはおおきいテレビ、絵本の本棚、アンパンマンやら壁にいっぱいいた。そして看護師さんに呼ばれて奥の診察室へ。その日の担当であるお医者さんが診てくれた。ベッドに寝かされ、鼠径部に注射針をさされる。何の注射だか、説明が聞き取れない。それからストレッチャーでレントゲンやMRIを受ける。休日だというのに技師さんがいるのに驚いた。検査後、また診察室へ…。

 母はとっくに気付いていたが、この時、抗がん剤による免疫力低下で肺炎になったのだ。日和見感染の肺炎。できあがったレントゲンの肺は真っ白だった。





2021年10月3日日曜日

こちらをみているすみっこ+映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ の感想&ネタバレ

(ネタバレします。個人的思考がはいります。ご注意下さい) 



 ……こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。いや、認めたくない。‘映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ’で号泣するなんて。あぁ泣いた。久しぶりに。凄くいいっておもう映画でさえ感動しただけなのに。

 で考えた。なんでこんなに泣いたのかと。おさえるとこおさえてるなとはおもったが、それだけではあるまい。要は、不条理と奇跡。そしてそれはバランスでなりたっている。奇跡はおこった。すみっコたちは絵本の世界に入り込みひよこに出会い、冒険をエンジョイできたのだ。それが奇跡。でも、ひよこはすみっコたちといっしょに絵本の外の世界にはいられないのだ。絵本の住人であるがゆえに。それが‘この映画に設けられた’不条理だ。
 なんてことをっ。ひよこが一番はやく気づく。自分が絵本の外にでられないことを。映画の世界の外から設けられたルールに、無意識に従わなければならないのだ。それでもひよこは、それを受け入れたうえで自分にできる最大限ですみっコたちを助けようとする。彼らが外にでられるようにパーツの斜塔を支える。あんな、ちいさく非力なのに。もうっ、泣くしかないだろうっ!
 最後、無事にでられたすみっコたちはひよこの描かれた絵本のページを彩ってハッピーエンド…いや、そこはよかったけどっ、そうじゃないだろう。あのひよこは無意識で気づいてしまったのだ。自分では変えることのできないルールに。映画の外という概念は考えていないだろう、あの様子だと。だから、映画の途中途中にでてきたあの、クレーンが許せない。あれは物語を進行させるためのいわゆる‘制作者の手’だ。それが奇跡を起こすきっかけをつくり、不条理の道しるべとなっている。物語の中だけで完結させてくれなかったのだ。そんなのひよこに残酷過ぎるじゃないかないか。

 ……これを観たうえで色々思い出していた。確か、もうひとつアニメ最終話で泣きはらしたことがあったなと。
 それが‘プリンセス チュチュ’だ。この話もどうしようもない不条理と奇跡の話だ。あらすじをはなすと、作者が死んだことにより、物語の世界と現実の世界(このアニメの中の)がめちゃくちゃになり終わらない悲劇が待ち受けている。その世界で主人公、ただの鳥のアヒルが美しいプリンセスチュチュになる。が、そもそも死んだ作者から与えられた奇跡。それも物語の中の。しょせんただのアヒル。自分の非力さを悲しみ愛するものと結ばれない不条理を受け入れ、大切な人たちの幸せを願う。そして、アヒルは奇跡を起こす。
 アヒルは物語の外の存在だからこそ、作者の魔の手から悲劇の登場人物たちを救えたのだ。でも、映画すみっコと大きな違いは、あの不条理はプリンセスチュチュの物語の登場人物である作者が、もたらした不条理だ。いわゆるアニメの制作者とアヒルは関わらない。アニメの登場人物はこちら側をどうすることなんてできないのだから。……そうそう、ゲーム‘アンダーテイル’のGルートもうこれだよね。しかし、アンダーテイルはプレイする側の意志の問題だ。責任がちゃんとこちら側にある。そこはゲームならではの双方向性のいいところ。

 まぁ、色々ならべたてたが結局のところ、映画すみっコは素晴らしい作品だとおもう。感動をあたえてくれて、観る側に考える余地までくれるのだから。その不条理はとても残酷で美しいのだ。




2021年10月1日金曜日

悪性腫瘍とどこまでも2

 20歳になるかならないかで、癌が体内にあることが発覚。あっという間に様々な検査をすまされ、数日後診察室へ。耳にしたことはあったが、若い癌は進行が早いのですぐの治療が求められる。

 しかし、我が癌はすぐ手術するには大きくなりすぎていた。このままでは左胸全摘になる。なので先に、抗がん剤を投薬し腫瘍をできるだけ小さくする必要があった。抗がん剤なんて知らない誰かの話しか聞いたことがない。未知なる経験だ。

 ちなみに、家族の血液検査でわかったのだが我が家に癌遺伝子はないらしい。若くしてなったのは突然変異らしい。しかしながら、自分が突然癌になった心当たりがある。そのワケはたぶんストレス。幼いころの学生時代から心が渇き、情熱はあるのに自身に絶望、何とかしなければと高校生の時爆発してみたり、絵を描くことにガチになりすぎたりで、予備校まで猪突猛進してきた。自分に鞭打ち続けてムリしたある意味罰。だが、自己改革で癌になるとはおもわなかった。

 話をもどそう。そして投薬生活がはじまるのだが、先生(グレーの髪色で、まるで子供のようにしゃべる面白い先生)のかるい説明によると前半後半で打つ薬がかわり3月に始まりちょうど8月でおわる、各月大体2回のセット内容。月はじめに血液検査つき。
 この頃の癌は大きさ5センチ。よくもここまで大きくしました。リンパにも少し転移しているらしい。まだ癌かどうかわからなかった去年、にショッピングモールの保険の紹介コーナーで、乳ガンってこんな感じと触ってわかるしこりの模型がおいてあった。ためしにさわってみたら明らかに自分のしこりのほうが大きく「やっぱり、私の癌じゃないな」って同居人のおもちさんとしゃべっていた。……あの頃が懐かしい。
 次は内科の先生の診察室。抗がん剤についてはこの先生が担当。若い男性の先生。最初にあった時、午後ってこともあったのだが先生はすごく疲れきっていた。外科の先生のご指名だったのだが、「自分は治療に時間をかけるのでもし、気になるなら担当医の変更してください」が最初の言葉。あ、大変なんですねーってかんじ。まぁ、面倒なので変えなかったが。その時内科の先生から抗がん剤について詳しくきいた。先生はとことん考え尽くすタイプらしい。一生懸命だ。
 看護師さんも母も同席している狭い診察室だからか、先生が疲れていたからか、私が疲れていたせいか、癌に関わってはじめて気分がどんよりした。まぁ、しょうがない。

 はじめての抗がん剤の日。ちょっとしたお出掛け気分で打たれた。病院の施設そのものが新鮮で今じゃ受付はカードで機械に通すだけ。その他検査も、バーコードでピッ。ハイテクである。お会計も機械に番号で呼び出され自動精算機。大型病院だと当たり前とあとで知ったが、当時は感動した。
 抗がん剤を打たれる部屋はベッドかリクライニングできる椅子かでわかれている。ベッドは簡易的な個室。カーテンでしきれる。椅子は大きさ部屋にぐるりと円を描き真ん中に、色々のったワゴンを動かし、きびきび働く人よさそうな看護師さんたちがいる。まるでSFのステーション。はじめてはおおきすぎる椅子のほうでうたれた。最初の検査からこの先ずっと、採血等々で注射針をさされまくるのだが結局あまりなれない。抗がん剤の針が腕に刺さる。異物感はんぱないである。看護師さんが注意深く名前確認や薬のチェック。針を刺したときの異常はないか、体調の変化があったらすぐしらせて等々、細心の注意をはらっていた。はじめて訪れた時からおもっていたのだが、ここの病院がそうなのか、すごーく人間に対して親切丁寧。終末の方も来られるからかな。神対応で驚いた。見てて清々しい。
 大体何種類かの薬を30分ぐらいで投与。1時間ぐらいかかったと思う。腕に違和感あったが、見るものが新鮮ですぐに時間がたった。おわりも気持ちよく、母とおもちさんと近く銀座まで足を伸ばしたほどだった。そしていわゆる銀ぶらをした。
 お店を数件まわり、綺麗な夜の青がうっすら街に染みだした頃、頭が言いようのないぼうっと感をおぼえた。視界が霞みふらふらする。そろそろ疲れがでたのかと思い帰ろうと電車に乗ったとき違和感は異変になった。
 はじめての経験。歩こうとするが足が言うことをきかない。しんを抜かれた感じ。頭がぐわんぐわんする。座席に座っていることもできなかった。酔っ払いってこんなかんじじゃないかと働かない頭がおもう。実際、母の肩をかりて千鳥足だった。駅まで車で迎えにきてもらいなんとか家に着いたが、着替えられず布団に入るしかなかった。横になってる時、夕食のまえだったのでお腹になにもいれてないのはまずいと母がハーゲンダッツのクッキークリームを持ってきた。嬉しくそれを頬張った。しかし、食べることはできなかった。舌が痺れて味がすごく不味いのだ。ショックだ。なによりのショックだった。健康な自分にはあり得ないことだった。そう、これらはすべて恐るべし副作用のはじまりである。

 抗がん剤の説明で聞いていたが、こんな感じなのかとしみじみ実感した。吐き気、嘔吐、目眩、味覚障害、脱毛。そして、これらを徐々に経験していくことになる。
 吐き気や嘔吐はなかったが、肌や目が乾燥し細胞が弱まっていくのを感じた。舌がありとあらゆるものを受け付けなくなる。人工的な味が美味しくないのだ。好きなものが食べれないのが一番ショックだった。自分の場合しばらくたってからだったが、毛がさわっただけで抜けたのには驚いた。ちょっと面白かったけど。ドライヤーなんか大変だった。脱毛はきいていたので、長い髪を短く切ったが毛の処理は抜けるたびに大変だった。生まれて20年間かけて変わった身体が、異常な早さでまた生まれ変わっていくのだった。それは衝撃と新鮮さと、その生まれ変わった身体に耳を傾けることを、否が応でもさせられた。

 抗がん剤は癌に効くが、癌も自分の身体の細胞の一種なのだ。他の細胞も攻撃する。死に至らしめる癌がいた時は普通の身体なのに、その癌を死するために抗がん剤を射つと身体は弱る。あたりまえだが、なんともアイロニカルなはなしだ。抗がん剤のほうが、得たいの知れない力に感じた。身体を蝕む未知なる力…みたいな。