2021年10月3日日曜日

こちらをみているすみっこ+映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ の感想&ネタバレ

(ネタバレします。個人的思考がはいります。ご注意下さい) 



 ……こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。いや、認めたくない。‘映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ’で号泣するなんて。あぁ泣いた。久しぶりに。凄くいいっておもう映画でさえ感動しただけなのに。

 で考えた。なんでこんなに泣いたのかと。おさえるとこおさえてるなとはおもったが、それだけではあるまい。要は、不条理と奇跡。そしてそれはバランスでなりたっている。奇跡はおこった。すみっコたちは絵本の世界に入り込みひよこに出会い、冒険をエンジョイできたのだ。それが奇跡。でも、ひよこはすみっコたちといっしょに絵本の外の世界にはいられないのだ。絵本の住人であるがゆえに。それが‘この映画に設けられた’不条理だ。
 なんてことをっ。ひよこが一番はやく気づく。自分が絵本の外にでられないことを。映画の世界の外から設けられたルールに、無意識に従わなければならないのだ。それでもひよこは、それを受け入れたうえで自分にできる最大限ですみっコたちを助けようとする。彼らが外にでられるようにパーツの斜塔を支える。あんな、ちいさく非力なのに。もうっ、泣くしかないだろうっ!
 最後、無事にでられたすみっコたちはひよこの描かれた絵本のページを彩ってハッピーエンド…いや、そこはよかったけどっ、そうじゃないだろう。あのひよこは無意識で気づいてしまったのだ。自分では変えることのできないルールに。映画の外という概念は考えていないだろう、あの様子だと。だから、映画の途中途中にでてきたあの、クレーンが許せない。あれは物語を進行させるためのいわゆる‘制作者の手’だ。それが奇跡を起こすきっかけをつくり、不条理の道しるべとなっている。物語の中だけで完結させてくれなかったのだ。そんなのひよこに残酷過ぎるじゃないかないか。

 ……これを観たうえで色々思い出していた。確か、もうひとつアニメ最終話で泣きはらしたことがあったなと。
 それが‘プリンセス チュチュ’だ。この話もどうしようもない不条理と奇跡の話だ。あらすじをはなすと、作者が死んだことにより、物語の世界と現実の世界(このアニメの中の)がめちゃくちゃになり終わらない悲劇が待ち受けている。その世界で主人公、ただの鳥のアヒルが美しいプリンセスチュチュになる。が、そもそも死んだ作者から与えられた奇跡。それも物語の中の。しょせんただのアヒル。自分の非力さを悲しみ愛するものと結ばれない不条理を受け入れ、大切な人たちの幸せを願う。そして、アヒルは奇跡を起こす。
 アヒルは物語の外の存在だからこそ、作者の魔の手から悲劇の登場人物たちを救えたのだ。でも、映画すみっコと大きな違いは、あの不条理はプリンセスチュチュの物語の登場人物である作者が、もたらした不条理だ。いわゆるアニメの制作者とアヒルは関わらない。アニメの登場人物はこちら側をどうすることなんてできないのだから。……そうそう、ゲーム‘アンダーテイル’のGルートもうこれだよね。しかし、アンダーテイルはプレイする側の意志の問題だ。責任がちゃんとこちら側にある。そこはゲームならではの双方向性のいいところ。

 まぁ、色々ならべたてたが結局のところ、映画すみっコは素晴らしい作品だとおもう。感動をあたえてくれて、観る側に考える余地までくれるのだから。その不条理はとても残酷で美しいのだ。




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