サービスだったり、情報だったり、安心だったり、丹精こめて作り上げた空気感だったり、興奮や感動だったり。
そういったものは形ないのに、形あるお金で支払うのだ。よく考えると酔狂だ。
でも、ものはいつか壊れてなくなる有限と考えるなら、そういった形ないものは一生ものになるかもなのだ。人生に彩りをあたえてくれるかもなのだ。
さて、実在のものに金を支払うのと夢に金をつぎ込むのどちらが得なだろう。
遥かむかしの物々交換は利にかなっている。
でも、この異常に発展した社会ではものが、その‘物’が存在しないことがある。
クレジット、ビットコインなんて形ないお金に形ない商品ものを交換するんだから、世の中なんてほぼ幻想だ。
さて、この前。自分は夢にお金を支払った。いわゆる投資ってやつである…ギャンブルともいうが。
それはいろんなことを経て、叶えたかった夢であった。
しかし、本当偶然にその夢をつかみそうだった。それは一生もの。こんな強運すごい幸せとかんじた。甘言と残酷は刺激的な薬物だった。
しかし、大金が必要だった。
自分がもっている金額じゃあ足りないほどだ。
最初は母の力も借りて借金しつつ支払うつもりだった。
だが、その夢との契約主は最初話を変えてきて、だんだんかかる金が増えてきた。もちろん、初期の自己投資はいとわないつもりだったし、そんな夢みるための残酷な現実でさえ受け入れる用意も出来てきた。
そう、自分はたまたまつかんだ夢でそのためならば、客扱いされようがカモ扱いされようがと、おもっていた。
捨て身ってやつである。
自分は運命論者なので、そんな話、偶然を掴みとらなきゃとおもった。夢に金をかけてもいいと、母の反対を押しきって借金したのだ。
しかしたった一週間、そんな夢掴もうとする夢から覚めた。
そのきっかけは、受け付けてくれた親切な仲介者の作品。
見てしまったのだ。
その人自身である絵を見てしまったら最後、もう、さっきまであった騙されていようがやり抜いてやるって気持ちがぐらついた。みるみるしぼんでいく。
でも、かなしきかな。まだこの時、そのぐらついた気持ちを振り払おうと逃げ道がないように、後戻りできないように、お金はカード支払ってしまったあとだった。
さて、借金のあと。
借金してしまったら仕方がない、と、割りきり夢から覚める絵を描いた人たちに大金を支払い続けて夢を掴む賭にでるか。
自分が目の当たりにしたものを信じて夢の縁切りのため(キャンセル料が発生してるのだ)その金を支払うか。どちらにしたって支払うのだ。
……結果、自分は夢のキャンセル料を支払うことにした。
借金したあとでも自分に嘘をつけなかった。
しかも、借金した直後、影が怪しくたちこめて夢から覚めかけてるなか、ちょうどそのとき、同居人おもちさんが電話で力説でしてくれた。ちょっとまてよと。すごく愛をかんじた。
それは、お金がかけようがなかった。かけても手に入れられるものではなかった。
夢を見続けようが、覚めようが両方ともなんにも実在してない。それを覚めさせたものも、実態はない。たしかなものなんてない。
それがなんともおかしな話だ。
馬鹿の世迷言。
私は、ネギ背負ってタレ塗りたくり炭火の前に立っている鴨だ。それぐらい、世間知らず。
それでも生きてこれたのは、一人ではなかったから。
この一週間、夢の中さまよって愛と経験と制作意欲と、自分は色々手にはいった。
都合のいい話だが、借金はある意味、キャンセル料だけではないものになった。
こんなことはもうしたくないけれど、いい投資だったのではないだろうか。
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