2021年9月14日火曜日

美少女論

 短いけれど、生きてきたなかでずっと描き続けていたもの…たぶんこれからも描き続けるもの。多くの人が惹かれ、それを描いた作品が世にごまんとある。それだけ魅力的なモチーフなんだとおもう。…美少女、今回はその話をしよう。

 自分の中にある、美しいものの形容が美少女だとおもう。
 幼い女の子が、少女アニメにでてくる女の子を描いたりするのは自分の投影と憧れだ。しかし、年齢を重ねると男性のほうが美少女を描く。しかも上手いし、可愛い(これは羨ましい。なぜか女性が女を描くと客観視がなくなる気がする。それはそれでいいのだが)。これも、一種の憧れかなと。性的欲求で描かれている方もあるとおもうが。老いも若いも関係なく美しい少女は目を惹き付ける。かくゆう自分もその虜の1人。
 その虜たちの理想の美少女は各々ある。美の基準がそれぞれで決まるからだ。フェティシズムだね。アニメ系の美少女(ここでいう‘美少女’はカテゴリーだとおもう)、バリュテュスらの宗教的な神聖化少女ら、とにかくセクシャルなロリータ、ジブリの原始的生命力と淑やかさを兼ね備えたヒロイン、完璧な造作の人形等々、それに想いを馳せるのだ。
 さて、自分を省みよう。自分の美少女、自分にとっての美少女だ。
 幼い頃、絵を描く上で、頭のなかで形だっているが言葉にしなかった。もともと、言葉というものが後追いのようで嫌いだったからだ。美術予備校生時代、それを指摘されたことがあり腹がたてたことが……まぁそれはおといておこう。今は言葉にしよう。
 自分にとっての美少女、皮膚がしっとりと滑らか、まっすぐな漆黒の髪も艶めき濡れて前髪が重ために整っている。眼は長い睫毛に囲われ、零れるような宝石であり、水を湛えた宇宙、その奥深く生命の始まりと終わりが繰り返されている。唇は果実。それほど高くない背丈で、身体は柔らかく硬く細く。……こんなところだろうか。自分のなかで、繰り返し歳を重ねるごとに、完璧に創られた少女像だ。もっと細かく細密描写できるが、長ったらしくなるし無意味だ。今、描き挙げた少女像を、現実世界で破片でも見かけると心すこし傾く(しかし、完璧なわたしの美少女はこの世にいない…だから描くしかないのだが)。より自分の美少女像を明確にするため色々観察するのだ。今度は中身についてだ。そう、問題は内側。美というものは中身からでてくるのだ。シャネルとか、レディーガガとか。‘コロンボ’の殺意をもった女犯人もすごくセクシーだ。心根、ってやつである。どんなに造形よくても中身が所作、仕草、表情にありありとでる。例えばオードリーヘップバーンは、あの眼の輝きや身体つきやバレエ的動作は、芯の強さが表れてるとおもう(昔の映画特有の、セットや照明の輝きはなんであんなに美しいのだろう…)。
 そう中身…すごーくむずかしい。だって美少女は遠くでも目だつし細かな目鼻立ちの造作は説明したくなるほどなのに、近くにいればいるほどぼんやりとして抽象的、なんだかわからない印象が残り、言葉がでてこない。漂う色香は夢心地にさせる、脳内麻酔だ。だからきっと、なんにもない、からっぽ、底知れない。それかとても原始的、本能と強い意志があってほしい。それが理想。アニメ版、原作版セーラームーンの土萠ほたるちゃんがそれに近いかな。美少女の明確なインスピレーションを与えた森茉莉さん著書、小説‘甘い蜜の部屋’ 牟礼モイラは感動した。言葉であれだけ表現できるなんて…である。

 物語などの人間を観察し、なぜこの表情この色香この仕草…と思考する。自分の‘美少女’という世界のために。それがおもしろくて仕方がない。



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