2022年2月12日土曜日

悪性腫瘍とどこまでも9

 放射線治療もおわり、一息ついた頃。

 この頃から癌再発よぼうのため‘タモキシフェン’という薬を飲まなければならなくなった。
 この薬がまた、厄介で。
要は再発防止のため胸にいくホルモンを子宮のほうにながす効果があるらしい。
 で、問題は副作用。無月経、月経異常、性器出血、腟分泌物、吐き気・嘔吐、食欲不振、下痢、腹痛、頭痛、めまい、発疹、発汗、脱毛、ほてり・潮紅、体重増加、浮腫等々。
 更年期障害みたいな症状になるらしい。二十歳そこそこでまさか更年期を味わうとはおもわなんだ。だから、妊娠もできないらしい(そんな予定はふつーにないが)。
 ちなみに自分は、体重増加の症状がすごかった。特に異常な食生活していないのに、太るふとる。もう笑うしかない。
 あと、火照りとイライラと手の痺れ。生理異常も経験しました。
なれるとなんでもないのだけれど、なれるまでがなんとやら。

 なんだかんだこの薬を5年間飲み続けなければならなかったのが一番しんどかったかもしれない。
 定期診察もうけていたけれど1時間まって診察は薬貰うだけの3分。病院あるあるである。

 入院時、先生が病室にきて描いていた絵を見て「欲しい」っていわれたので額に入れて渡した。
もう定期の診察の時は「顔見せに来てね」っていうぐらい結果は良好だった。
 まだ若いからね。なんで癌になったのか不思議なくらい今までは健康だったのだ。でもこの定期診察とタモキシフェンが癌のことを思い出される。

 闘病…って思いたくないのだ。少なからず癌は自分の一部なのだから。それと闘いたくない。
 もちろん、大変だった。大変じゃないわけがない。短いが生きてきたなかででもこんな身体的な変化は味わったことがないし、
周りの人の助けがあったからいまここで生きながらえている。
 だからこそ、私の癌を愛している。貴重な劇的な体験は宝物のように美しい。それをさせてくれた癌が愛おしいのだ。
 だからなのか、ただなんとなく‘リコピン’という腫瘍のぬいぐるみを作った。私の身体からいなくなった代わりではないが、外にでて楽しく生きてくれていたならと勝手に想像している。


 早いもので、もう5年がたってしまった。途中、コロナで病院通いできなくなり先生ともそれきりになった。
 この5年、いいことも悪いこともたくさんの変化もいっぱいあった。そして、それらの歳月に癌という経験は足場となり味つけしてくれている。自己形成の一部といったところか。それほど大事なものなのだ。


 これが私の癌との向き合いかただった。私は今も生きている。 
















2022年2月7日月曜日

せいなる問題

 うちの同居人のおもちさんはアセクシャルである。
 つまり、ただ単純な性的感情がないのだ。だからといって性欲がないわけではないのだが、女性男性も性の対象ではないというのが正しいだろうか。

 人間誰しも幼児性欲はある…と思う。
 幼児性欲とはフロイトが定義したもので要は第二次性徴…まあ要はセックスに興味もつ前、幼児段階において、近親であろうと同性であろうと自分自身であろうとあらゆる対象が性的な対象とされる…というのだ。

 表現者としてはこの問題は重要なのだ。性欲はいわゆる活動力だし、芸術とは切手も切れない仲だ。
自己というものを知る事は創造する立場なら絶対必需品だ(別に定義はしなくてもいいと思う。決めてしまうにはあまりにも人間は複雑だ)。


 そう、なぜこんな話をしたかというとおもちさんいわく、
「性的表現を経験してなくても想像できるし書けるがそういった感情はよく分からないから…難しい」だそうで。
 おもちさんも表現者なのだ。
彼女がいうには「体験はしたくない、でも中身がないのとあるのじゃ書くものが違う。
無い、という感情は寂しくもある」らしい。
無いものないとして、その条件を受け入れ、そのなかから選択するのが人生だが。


 他人を語っていたが自分はというと、曖昧だ。自分的には一番初歩的な幼児性欲の部分が一番つよいと思っている。
 信条としては自己をとことん愛しているからこそ人を愛することができると思っている。
 きっと表現者なら多かれ少なかれ、自分に性欲を感じるのではないだろうか。自惚れてなければできないよな、なんて。
 頭の中で創りだした美しい少女に性的魅力を感じるが、男性も綺麗だなと思うこともある。
 でもそれって結局のところ、自分の中のこの人いいなっていうそれが、ジェンダーに関わっているのだ。だから、自分が一番って結論になる。

 なんなら今のご時世、ありとあらゆるジェンダーの主張だけは意図も簡単にできるのだ。
 その上辺だけを見るなら本当に、多様になったと思う。
 本当に頭でっかちな人間(身体性を忘れた人間)だからこそこの性的倒錯は生まれたのだ。

 おもちさんとそんな話をしたりする。
 無いものをないと認めて選択するのが人生。そう、人間は平等に不条理なのだ。
 無い人間にしかわからない気持ちなのかもだが、無いなら無いなりに素晴らしき創造と選択がある。
 というより、自分は無いほうがよりよい結果があると思うし、創造のほうが経験よりはるかに美しかったり、現実的だったりする場合があると思う。

 なんなら、人間の性なんて創造が9割りでは?